私は石屋の子供に生まれた. しかも余り家には用のない四男として生まれたのであった.それは兎に角,生まれ落ちるより,石の埃にまみれて,朝な夕な石を叩く騒音の中で,その少年時代を過ごして来た. それというのも,岡崎は読んで字の通り,石屋町の真只中で,この石屋町は90パーセント石屋が軒をならべていた所であるから, 文字通り石屋っ子といってもいいのかもしれない.     (鈴木政夫 日本の石彫)
 
1938     召集
1944年8月 浅間にて召集解除 1945年6月 再召集
1945     九州にて除隊  
昭和の激動期はいやおうなく大戦争への足音をたかめていった. 私の運命は,この大戦争に合わせて生まれてきたように,初年兵から戦争の渦中に巻き込まれていった.      (鈴木政夫 わが石彫の風土)

営門を出た. 中隊の人々を見た. 兵営をふりかえった.浅間の峰を仰いだ.浅間は今日も何事もないように,白い煙を静かに吹き上げていた.
「ざまあ見ろ!」           (鈴木政夫 石彫春秋) (朝日新聞 昭和41年8月9日)
二人の弟とこの開墾を始めたのだが,いちはやく二人の弟は山を下りて行った. 荒涼たる開墾地に一人残った私は,痛々しい妻と泣き叫ぶ子供を見ながら,この馬鹿馬鹿しいまでに報いのない開墾生活を6年余も続けてしまった.
もう行き場とてない私に, 二人の姉が,自のヘソクリを出し合ってくれ,最小限三年間私が東京で勉強することを保証してくれたのであった. (鈴木政夫 わが石彫の風土)

二人の姉のヘソクリで三年間,単身上京し,中野の先輩, 畔柳冶三雄氏の庭先に急造のアトリエを建て,ひたすらモデルと対決して彫刻,即ち造形の初手からやりなおしたのであった. (鈴木政夫 石彫春秋)


ちょうどその頃木内克先生を知ったのも私には幸いであった. 
木内先生の御子息の岬氏に勧められて,一度だけ自由美術展に出品する機会があった. その後,自由美術の研究会なるものに二,三度出席,公募展の内部を垣間見て,何と馬鹿げたものかと思い,すっかり絶望してしまったものであった.

公募展がだめなら,後は個展以外に方法はない. 銀座の文春画廊で第一回目の東京での個展をしたのは1958年10月であった. (鈴木政夫 わが石彫の風土)
1952 1945年より開墾に取り組むも,東京へ出奔・彫刻勉強 
1916. 12.23 岡崎に生まれる
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鈴木政夫 経歴1
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